突然ですが、先月、HTMLなどを使って作っていた物語の一章が完成しました
→『きょうとゆめ』
構想は中学時代からあったので、永遠にできないんじゃないかと思っていたのですが、とりあえず、大学四年生になって、一章はできたようです
こんな感じで見えているかと思います↓
これからもどんどんと展開させていくつもりなのでよろしくお願いします!
もうすぐゴールデンウィークですね
私は大学生で年中休みのようなものなので、これといった嬉しさはなく、このような大型連休は各所混むことが予想されるだけなので、むしろ憂鬱ですが、大阪の祖父母の家にでも転がりこんで、のんびりと作品制作でもしながら過ごそうかなと考えております
私の夢は物語を書くことが誰かのためになり、それがいずれ、宮沢賢治が夢見たように、現実に開かれていくことです
以下からは神戸の奥まったカフェで、一緒に呑む約束をしていた友人を待ちながら作った短い小説です
「今度旅に出ようと思うんだ。有り体に言えば、自分探しの旅だね、僕としては東南アジアらへんに行こうかなって思うんだけれど、君はどこに行けばいいと思う?」
私がコーヒーにミルクを注ぐのを見つめて、目の前にいる友人はこう言ったのだ。
「神秘だとか、まだ見ぬ自分だとか、そういうのを他の場所に君は見つけようと思っているの? パスカルが言ったように、日常の微細を見つめる目を持たないと」
ミルクはクルクルとコーヒーの上でダンスをする。そしてその奥にはもくもくと雲のように広がっていっている。立体と平面の二層構造を惚れ惚れとして私が見つめていると、
「あ、馬だ」
とその友人が突然、言った。
確かに、コーヒーの上のミルクの描いた紋様は、まるで走っている馬のような絵を描いていた。
「シュールレアリストの技法……」
私は、思わずそう呟いた。
昔読んだ本にそのことは描かれていた。シュールレアリストのマックス・エルンストは、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記を引用しながら、自らの創作について語る。彼は雲の作る模様に女性の横顔を見出し、ゴツゴツとした岩肌に、衣服の質感を見出す。そこにおいて彼は詩人だが、全くのあてこすりでそれを行なっているのではなく、その裏に見え隠れするのは、自然の法則である。
マックス・エルンストは、床にある木の木目の「自然の」凹凸を擦り合わせることによって描き出す、フロッタージュの技法をしばしば用いた 。
自然の諸法則そのまま、器用に緻密な絵を生み出すのだ。
人類学者のレヴィ=ストロースはそれを「隠れた法」へと導くとゲーテの言葉を使って言い表した。
ゲーテは内なる自然の言葉を意識して作っていたのだ。
Sah ein Knab' ein Röslein stehn,(ゲーテ『野ばら』)
ドイツ文学の教授は、心臓の鼓動のリズムを意識しながら、アクセントが交互に置いているんだと、教えてくれたのを、私はよく覚えている。
注意深く見てみなければ、実際に声に出して読んで見なければ、「隠れた法」はなかなか見つけることができない。案外、意外なところで内実を語っているのだ。
「またわけの分からないことを考えているのかい? インドネシアなんていいよなあ。古き兄弟の住む場所。ガムランの神秘的な音楽。夜のインドネシアなんて聞いただけでほら、もう楽しそうじゃないか」
「確かになあ」僕も想像しながら答える。
「だろだろ。だけれど、中国もいい。西遊記の格好をしてサークル仲間みんなでインドを目指すのはどうだろうか」
「はは、最高」
引き続き、私たちの会話は、まるでコーヒーの上で繰り広げられるミルクのダンスごとく、繰り広げられる。